「怪獣」って何か説明できる!?

そもそも「怪獣」とは一体何か?


 『シンクロナイズドモンスター』はヘンテコな映画ではあるが、立派な怪獣映画と言える。そして非常に「新しい」怪獣映画と言って差し支えないだろう。これは新世代の怪獣映画である。それはどういう意味か。説明するにはまず、伝統的な怪獣映画とはどんなものか、怪獣とは何なのかを掘り下げてみたい。

 怪獣映画とは勿論、怪獣が出てくる映画のことだ。では怪獣とは何か?怪獣とは「正体の知れない不思議な動物」のことだそうだ。出典:goo辞書( https://dictionary.goo.ne.jp/jn/36066/meaning/m0u/

では、そんな「動物」が映っていれば、それ即ち怪獣映画と言えるのだろうか?筆者が思うに、怖い怪獣が出てこなければ、それは怪獣映画とは言えない。怪獣は怖くなければならない。怪獣というのは人間の原罪を伴って現れ、人間を怖がらせねばならない。怪獣は人間の「罪」の象徴であり、人間への「罰」としてやって来なければならないのだ。それに対して人間たちが必死に抵抗するからこそ、我々観客は怪獣映画に感動させられるのである。

人間たちは怪獣と向き合って、自分たちの「罪」を思い知り、反省し、今度はそれを倒す存在となるべく自己を高めていく。そして最後には怪獣に打ち勝つのだ。そうでなければ人間に成長が無い。「怪獣映画」とは、「人間が怪獣と戦い、怪獣から学ぶ映画」でなければならないのだ。

伝統的な歴代怪獣を考察してみる


 次に、そんな怪獣映画の歴代怪獣たちに触れてみよう。

 『キングコング』(1933年)はベーシックな怪獣映画の一つ。続編やリメイク、非公式リメイクやパロディを合わせれば10本程度はあろうか。キングコングは自然界に生き残っている神の象徴であり、また、世の男性のリビドーのメタファーとも取れ、多角的な解釈が可能な怪獣だ。狂騒の1920年代を経た映画作品であることを考えると、キングコングは乱れた文化への鉄槌であり、強心剤のような怪獣であると言える。

一方、乱れた人間の方が怪獣になってしまう作品もある。『 マタンゴ』(1963年)のキノコの怪人だが、これは欲に目が眩んだ高度経済成長期にある日本人の成れの果てだ。マタンゴにはなりたくないが、周りが皆マタンゴになってしまうくらいなら、いっそ自分もマタンゴになってしまえば良かったという皮肉なラストは、もはや怪獣映画以上の趣がある。

 今でもフランチャイズ絶賛稼働中の『 ゴジラ』シリーズのゴジラだって、核や戦争の象徴であるというのは有名だ。『 シン・ゴジラ』(2016年)は東北の震災と福島原発だったし、それは ギャレス・エドワーズ監督が撮った『 GODZILLA ゴジラ』(2014年)も同様だ。戦争や震災からの復興は喜ばしいことだが、決してあの恐怖を忘れてはいけない。我々が次世代に負う責任を、ゴジラは思い出させてくれる。

 そのゴジラと戦った怪獣たちもまた興味深い。有名なのは『 ゴジラ対ヘドラ』(1971年)のヘドラである。ヘドラはご存知の通り、公害の化身だ。高度経済成長の副産物である公害が怪獣となったのが、このヘドラだ。ヘドラが人間を殺しまくる描写の恐ろしいことと言ったら無い。

 『シンクロナイズドモンスター』に一番近いのは、『 大怪獣ガメラ』(1965年)かも知れない。飼っていた亀を捨てた少年が、ガメラを目の当たりにし「あれは自分が捨てた亀だ」と思い込むシーンがある。目の前の大惨事は自分のせいなのだと思い、彼は亀を捨てたことを後悔する。この少年の自責の念は、『シンクロナイズドモンスター』の主人公に通じるものがある。人類全体の罪のメタファーとしてでなく、自分個人の不始末が怪獣の姿をとって街を炎に包んでいるのだから、これより恐ろしい事は無い。

以上に挙げた怪獣はほんの氷山の一角だが、怪獣はいつも、人間の「罪」を映す鏡なのだ。